焼津市
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出生地。
府中市での生活のほうが長い。
『焼津市史 民俗編(編集 焼津市史編さん委員会 発行 焼津市)』に地名を見る。
・< 1>〜<17>:焼津地区
・<18>〜<25>:豊田地区
・<26>〜<34>:小川地区
・<35>〜<48>:東益津地区
・<49>〜<60>:大富地区
・<61>〜<68>:和田地区
2007年(平19)発行のため、旧大井川町部分の記述はない。

鰯ヶ島(いわしがしま) 城之腰(じょうのこし) 北浜通(きたはまどおり) 新屋(あらや) 焼津(やいづ) 本町(ほんまち) 栄町(さかえまち) 中港(なかみなと) 駅北(えききた) 塩津(しおつ) 大(おお) 大栄町(だいえいちょう) 大村新田(おおむらしんでん) 大村(おおむら) 八楠(やぐす) 大覚寺(だいかくじ) 越後島(えちごしま) 三ヶ名(さんがみょう) 五ヶ堀之内(ごかほりのうち) 小屋敷(こやしき) 西焼津(にしやいづ) 柳新屋(やなぎあらや) 小柳津(おやいづ) 小土(こひじ) 保福島(ほふくじま) 小川(こがわ) 小川新町(こがわしんまち) 東小川(ひがしこがわ) 西小川(にしこがわ) 石津(いしづ) 石津向町(いしづむかいちょう) 石津中町(いしづなかちょう) 石津港町(いしづみなとちょう) 与惣次(よそうじ) 策牛(むちうし) 関方(せきがた) 方ノ上(かたのうえ) 坂本(さかもと) 石脇上(いしわきかみ) 石脇下(いしわきしも) 小浜(おばま) 野秋(のあき) 花沢(はなざわ) 高崎(たかさき) 吉津(よしづ) 中里(なかざと) 岡当目(おかとうめ) 浜当目(はまとうめ) 本中根(ほんなかね) 中根(なかね) 中根新田(なかねしんでん) 中新田(なかしんでん) 大住(おおずみ) 三右衛門新田(さんうえもんしんでん) 治長請所(じちょううけしょ) 三和(みわ) 祢宜島(ねぎしま) 道原(どうばら) 大島(おおじま) 大島新田(おおじましんでん) 惣右衛門(そううえもん) 一色(いっしき) 田尻(たじり) すみれ台(すみれだい) 田尻北(たじりきた) 下小田(しもおだ) 下小田中町(しもおだなかまち) 北新田(きたしんでん) 高草山 花沢山 虚空蔵山 日本坂峠 高草川 石脇川 朝比奈川 瀬戸川 梅田川 小石川 黒石川 木屋川 栃山川 成案寺川 花沢川 六間川 泓(ふけ)の川 前の川 栄田川 一色・横須賀川

地図は『カシミール3D』より作成しました。(現地図とは異なります。)

●焼津市役所(焼津市本町2-16-32)中心の地図(国土地理院 地図閲覧サービス)が別ウィンドウで開きます。




焼津市 市域の推移
1889(明22)鰯ヶ島、城之腰、北新田、焼津、新屋、塩津、焼津北、中、大村新田、 大、八楠南、八楠北の12ヶ村が合併し焼津村施行。
1901(明34)町制施行。
1951(昭26)市制施行。
1953(昭28)豊田村を編入。
1954(昭29)藤枝町の一部字大覚寺を編入。
1955(昭30)小川町、大富村、和田村、東益津村を編入。
1957(昭32)広幡村の一部字越後島を編入。
2008(平20)大井川町を編入。

(『焼津市ホームページ 統計やいづ(平成21年度版) 土地・気象 A-1.市域の推移』より)

焼津地区
○沿革
焼津という地名の起源は日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説に基づいている。
焼津という地名の「焼きつ」が地名としては縁起が悪いということで、 同じ音の「益(やく)」に変えられて益津(頭)となり、 さらに読み方がヤキツからマシツ(ヅ)に変わったと推定される。 したがって古代から明治中期まで存在した益頭(益津)郡は、本来焼津という地名がもとになっていた。 天然ガスの噴出がみられたこの地の特質より、 天然ガスが焼ける(燃える)津(港)が地名のもとになったと考えられる。
焼津村は1889(明22)に益津郡焼津村として成立し、 1896(明29)年に益津郡が志太郡に合併されたため、志太郡焼津村となった。
『静岡県志太郡焼津町沿革誌』(稿本)に新村名の由来として、 「本村の海浜を焼津港と称し有名の港湾あり、 又大字焼津は往昔日本武尊東征の地にして延喜式内県社焼津神社あるを以て 村名を焼津村とす(原文カタカナを平仮名になおした)」 とある。
焼津は焼津神社周辺を示したが、 産業・人口の中心は北新田・城之腰・鰯ヶ島の三集落であり、 総称を浜通りという。
東海道線が1889(明22)年に開通したさい焼津駅が設置され、 従来東海道からはずれた位置にあった焼津は一気に交通至便となり、 水産物の出荷によって経済的に発展することになった。
大覚寺・越後島はそれぞれ個別地区として扱われることもある。
< 1>鰯ヶ島(いわしがしま)
浜通りの南端に位置し、どちらかというとサバ船を中心とした近海漁業関係者が多い。
< 2>城之腰(じょうのこし)
浜通りを構成する三つの集落の中央にあり、旧焼津町の中心でもあった。 北側の北新田(きたしんでん)、南側の鰯ヶ島(いわしがしま)には漁師たちが多く住んだのにたいし、 城之腰は早くから水産加工業者や鮮魚商が多かった。
< 3>北浜通(きたはまどおり)
北浜通はかつて北新田といい、浜通りの北の部分にあたり、早い頃に城之腰から分かれたと推定される。 カツオ船の船元(ふなもと)が家を構えることが多かった。
< 4>新屋(あらや)
小石川、黒石川の河口部周辺がかつての新屋村である。 現在、もとの新屋村の大部分は栄町(さかえまち)及び本町(ほんまち)として改称され、 広大な新港と新しい魚市場が所在する地名となった。
新屋の一部を区分して昭和32(1957)年に成立したのが港町である。 焼津漁港を擁し、漁協、製氷工場、冷凍庫などが立ち並び、 また小石川沿いには飲食店が軒を連ねるなどしていたが、 昭和48(1973)年に栄町三丁目、同50(1975)年に本町一丁目となって町名は消滅した。
< 5>焼津(やいづ)
焼津市の市名のもとになった地区であり、一〜六丁目および焼津からなる。 焼津神社は二丁目にある。 住居表示実施以前には正規の町名の内部に、 元町、幸町、新富町など便宜的に種々の通称がつけられていた。
< 6>本町(ほんまち)
本町は昭和50(1975)年に住居表示により成立した新しい町名である。 本町二丁目に市役所があり、本町二〜四丁目を昭和通り、 本町五〜六丁目を神武通りという。 焼津きっての繁華街となった昭和通りに昭和34(1959)年にアーケードがかけられた。 平成になると空洞化が進み、平成13(2001)年に老朽化したアーケードは取り壊された。
< 7>栄町(さかえまち)
栄町は焼津駅の南側に位置し、旧「中」の小石川町と港町の一部に、 大字焼津北、大村新田、新屋、塩津の各一部が合して成立した。 新しい町名は旧来の名前を外し投票で選ばれた。
< 8>中港(なかみなと)
東海道本線の東側から海までの地区で、 昭和32(1957)年に大字焼津北と中の各一部をもって成立し、 同51(1976)年に住居表示によって一〜六丁目に区分された。 町名は焼津港に由来する。
< 9>駅北(えききた)
昭和51(1976)年に住居表示によって成立した町名で、一〜五丁目がある。 JR焼津駅の北側に位置するのが由来である。 近世の村名でいえば、焼津北、大村新田、大村、中村、八楠の各一部からなる。 駅北という町名が成立する以前には、西町、旭町という地域名称も使われていた。 旭町公会堂、西町バス停に地名を残す。
<10>塩津(しおつ)
東側に江戸時代の焼津村と、西側に五ヶ堀之内・小土村と接する水田地帯であった。 古墳時代から平安時代にかけての道添(みちぞい)遺跡(現在は焼津一丁目)などがあり、 古くから開発された場所である。 塩津の名は、文献上では応永9(1402)年の記事が最初である。
<11>大(おお)
江戸時代から昭和まで並立していた大村(おおむら)と大村新田(おおむらしんでん)は、 地名が語るように大村の西側に大村新田が分立した親子の村であった。 明治22(1889)年に焼津村の大字とされたことから村がとれて単に「大」となり、 しかもその後の住居表示などによって大栄町などが成立し、 ごく一部が「大」として残存している。 大村南部土地区画整理事業により、平成20(2008)年に大村二丁目となった。
<12>大栄町(だいえいちょう)
昭和51(1976)年〜54(1979)年にかけて大村新田、大の各一部、 それに瀬戸川より南側の八楠分をもって、現行の一〜三丁目が成立した。
<13>大村新田(おおむらしんでん)
現在の大村新田は江戸時代以来の大字の範囲から、 昭和48(1973)年に栄町一丁目と六丁目の一部を、 同51(1976)年に駅北二丁目と大栄町一、二丁目、 同55(1980)年に大村一丁目をそれぞれ分立させた。
<14>大村(おおむら)
かつて大字大村と呼称は同じであるが、実態はかなりことなっている。 区画整理の進行により近世以来の大字の境が改変され、 昭和55(1980)年に成立した大村は、 かつての大村新田、大、八楠の各一部によって構成される。
<15>八楠(やぐす)
南北朝時代の文書に八楠郷として出ているのが地名の初出である。 昔は柳本といい、氏神の加茂社の西北に同社の旧地とされる松臥という所があり、 そこに八本の大楠があったのが村名のもとになったといわれる。(『駿河志科』『駿河記』)
<16>大覚寺(だいかくじ)
大覚寺上と大覚寺下は西益津村に属していたが、 昭和29(1954)年に藤枝町に編入され、 その直後、藤枝市が成立した際に分離し焼津市の大字となった。
大覚寺という地名の起こりについては、『駿河記』で、 むかし大覚寺殿と呼ばれる公家がこの地に来て隠棲したことによるとされる。
<17>越後島(えちごしま)
越後島は広幡村に属していたが、 同村が昭和32(1957)年に藤枝市に合併されたときに分離して焼津市に合併された。
山田越後守が居住したことにちなみ越後島という。 島とは志太郡で川近くの微高地に発達した集落や人家のまとまりのことをいう。

豊田地区
○沿革
豊田村は明22(1889)年に小土、五ヶ堀之内、三ヶ名、小柳津、小屋敷、柳新屋、保福島 の七ヶ村をもって成立した。
『静岡県志太郡誌』には、 「本区域に属する地盤は概ね耕地にして、民は皆農たり。 即ち其の豊凶は民命に繋る所大なるを以て、 永く豊穣なる田実を享受せんことを祈念するに因みて、 かく名づけたるなりといふ」 とある。
<18>三ヶ名(さんがみょう)
近世初期には益津(益頭)郡に属していたようだが、 寛文年間(1661〜73)以降は志太郡となっている。 天文5(1536)年の記録に「小楊津真金名」とある中の真金名を「さねがねみょう」と読むとすれば、 これがなまって「さんがみょう」さらに三ヶ名へと書き改められたと解釈できる。
<19>五ヶ堀之内(ごかほりのうち)
伝承によれば、草分けは大和国の加茂明神の神官で関東に向かう途中、 ここに土着して加茂性を名乗ったといい、子孫は田中藩に仕えた。 その屋敷付近には、神楽井、七十五膳、元宮などの地名が残っていたが 耕地整理によって不明となった。 村を拓いた当時、五軒の屋敷があったのが村名の由来とも言うが、 五つの堀があったためという伝承もある。 『豊田のむかし』によると、 小川の長谷川という殿様がお城を築くため多くの土が必要となり、 田畑の土を取った。 その跡が五つの大きな堀になったので、 これらを五つ堀と呼んでいたが、しだいに五ヶ堀と呼ぶようになり、 その内側ということで五ヶ堀之内という地名が生まれたという。
<20>小屋敷(こやしき)
江戸時代のある時期までは益津(益頭)郡に属し、幕末には志太郡となっている。 小屋敷は志太郡と益津郡を行ったり来たりした。
<21>西焼津(にしやいづ)
昭和62(1987)年にJR西焼津駅が開業した。 駅名はJRや焼津市の要請で西焼津駅となった。 平成6(1994)年に町名は駅名より西焼津となった。 小屋敷と柳新屋の一部により構成された。
<22>柳新屋(やなぎあらや)
南にある小柳津はすでに平安時代に伊勢神宮の荘園である御厨として知られており、 小柳津の新開地(新屋)として当村が成立した可能性が高い。
<23>小柳津(おやいづ)
伊勢神宮の荘園を御厨(みくりや)といい、 焼津市内では方ノ上(かたのかみ)と小楊津(小柳津)が知られている。 現在の小柳津という地名はかつての小楊津御厨の名前を引き継いだものである。
<24>小土(こひじ)
天文18(1549)年に駿府浅間神社が勤めるべき役目と執行するために 今川義元が認めた財源の目録に小土の名が見える。
<25>保福島(ほふくじま)
『角川日本地名大辞典 静岡県』には、旭伝院の前身を保福寺といい、 これが洪水後に村名の保福島のもとになったと伝えるとある。

小川地区
○沿革
『小川村誌』(大正2(1913)年刊行)には、 明治22(1889)年に成立した小川村の村名の由来は 「当時名称の由来を調査せしものなし、 只旧村の大なるものゝ名称を襲用せるなりと伝ふ、 旧村の規模大なるがため幸ひに此由緒ある古村名を失はす喜ぶ可し」 とある。
小川という地名は、「延喜式」「和名類聚抄」に「益頭郡」「小川(小河)」と見え、 古代の東海道の駅の一つとして知られており、当時は益頭郡に属していた。
<26>小川(こがわ)
近年の区画整理の進捗と住居表示によって、 かつて小川、左口森、小川新地、下川原、会下之島(えげのしま)などから 成り立っていた近世の藩政村としての小川は、 いくつもの新しい町内へと分割された。 すなわち、会下之島が小川、 中世以来の小川の中心部が東小川(ひがしこがわ)、 その西側が西小川(にしこがわ)、 鰯ヶ島(いわしがしま)に接する小川新地や左口森が小川新町(こがわしんまち)となった。
<27>小川新町(こがわしんまち)
大字小川の一部と、大字焼津の南部、それに住宅化した小川新地などを合せた範囲で、 住居表示の実施によって昭和52(1977)年に成立。一〜五丁目がある。
<28>東小川(ひがしこがわ)
旧来の小川における区画整理と住所表示の実施によって 昭和53(1978)年に成立、一〜八丁目がある。 東側に県道静岡焼津線(旧国道150号)を隔てて同じく新成立した小川新町に接し、 西側は西小川である。
<29>西小川(にしこがわ)
昭和54(1979)年、区画整理事業により大字小川の西方部分に成立した。 法永長者といわれ今川氏と深い関係をもった中世の豪族、 長谷川氏の居城とされる小川城址(遺跡名称は、道場田(どうじょうだ)・小川城遺跡)がある。
<30>石津(いしづ)
石津は行政的にはひとくくりにされているが、 地図上からも明らかにオカとハマに分かれている。 なお現在の石津向町、石津中町、石津港町もかつては石津に属する耕地ないし沼沢地であった。 石津という地名が初めて現れるのは、戦国時代の天文18(1549)年である。
<31>石津向町(いしづむかいちょう)
昭和55(1980)年に大字石津と下小田の各一部により成立した。
<32>石津中町(いしづなかちょう)
昭和55(1980)年に区画整理事業として大字石津と下小田の各一部により成立した。
<33>石津港町(いしづみなとちょう)
昭和55(1980)年、区画整理事業により大字石津の一部をもって成立した。
<34>与惣次(よそうじ)
村名の与惣次は開発者の名であるという。 『静岡県志太郡誌』では、寛永の頃までは石津村の新田であったが、 寛永から正保の時期に分離されたと推定している。

東益津地区
○沿革
高草山麓から朝比奈川・瀬戸川までの地域は古代より「益津(益頭)」とされ、 方上御厨(かたのかみのみくりや)という伊勢神宮の荘園に属していたなど、 焼津市域において最も古い歴史を持つ。
益津は古くは「やきづ」と読んだが、「ましづ」に変わった。
<35>策牛(むちうし)
高草山の麓にあり、焼津市の西端にあたる。 現在は一般に「むちうし」と呼ぶが、古く「ふち牛」とかかれており、 「ぶちうし」と呼んでいたことがわかる。 もと良知(らち)郷として隣村の関方(せきがた)と一体であった。 「らち」というのは「埒外(らちがい)」という言葉からわかるように柵や仕切りの意味であり、 その一部に策牛があることは、牛の飼育と何らかの関係があったかもしれない。
<36>関方(せきがた)
高草山の南麓にあって、西は岡部町(旧)三輪に接する。 天正12(1584)年の文章に「ふち牛らち」「せき方らち」という地名がでて来るので、 戦国時代までは現在の策牛(むちうし)と関方は良知郷に一括されていたことがわかる。
<37>方ノ上(かたのうえ)
方ノ上は、古くは、方上と書かれ、近世には方野上ないし、方之上、 そして現在は方ノ上と表記する。 読み方はいずれも同じ。 方ノ上の歴史は平安時代にまでさかのぼる。
<38>坂本(さかもと)
坂本は日本坂の麓にあたることから付けられた名称であろう。 高草山はその名から明らかなように、上部が草地であり、 平野部農村の草刈場として重要な意味をもっていた。
<39>石脇上(いしわきかみ)
地名の由来は、旗掛石の伝説にみられるような、 巨大な石が祭祀の場となっていたことによる。 石脇下とは本来一村で石脇村と呼ばれていたが、 明治3(1870)年に上と下を冠して別々の村となった。
<40>石脇下(いしわきしも)
石脇という地名は、 徳川家康が武田氏との合戦を前に旗を掛けたと伝える巨石があることによる。 明治3(1870)年に上と下を冠して別々の村となった。 石脇の中央部に小さな岡があり、戦国時代に北条早雲が拠ったという石脇城跡がある。
<41>小浜(おばま)
花沢山の南裾の谷間に位置し、谷の出口を花沢川が横切る形で流れ、 かつては出水の常習地帯であったが河川改修と東益津排水隧道の完成によって改善された。
<42>野秋(のあき)
現在の野秋という地名は、もとは「野焼」と書かれていた。 高草山周辺では近世に焼畑が行われていたことや、 春先に茅場を焼くこともあったと推定されるので、 それが村名になった可能性がある。
<43>花沢(はなざわ)
高草山から花沢山に連なる山並の西側、花沢川に沿って発達した細長い集落である。 平安時代からの古刹、法華寺があり、かつての東海道ともいわれる日本坂の登り口にあたる。
<44>高崎(たかさき)
高崎は、明治8(1875)年に旧藩時代の成沢村(高崎下)と馬場村(高崎上)とが合併して成立した。 もともと馬場(ばんば)村と成沢(なるさわ)村は一村で、古くは花沢村に含まれていたという。 一般に「ばんば」と呼んでいる馬場村は、花沢城の馬場が置かれたのが地名の由来という。 成沢村は鳴沢という沢が村内を流れていることからついた地名であろう。 鳴沢というのは、流れ下る水音が響く様からついた呼称であろう。
<45>吉津(よしづ)
高草山の東麓に位置するが、 吉津という地名はヨシの茂ったような湿田の近くという意味と思われる。 東側に小字阿原があるが、アーラとは深田の意味に使われる。
<46>中里(なかざと)
改修前は大きく蛇行していた朝比奈川の左岸にある。 すでに平安時代には拓かれていたと思われる。 中里という地名は、益津郡の中央にあるからとも、 方上御厨の中心であるからとも言われるが、それに関する記録はない。
<47>岡当目(おかとうめ)
海岸に面した浜当目と対照的な地名であり、オカにある当目という意味である。
<48>浜当目(はまとうめ)
瀬戸川の河口部左岸に位置する。 北側に際立った山容をもつ虚空蔵山(当目山)がある。 当目とは遠目すなわち遠方を見張る場所という意味だという。 浜当目の人口増大にともない分家などが新たに開発した水田地帯で、 岡当目が誕生したことで、旧来の当目が浜を冠して呼ばれるようになったものであろう。

大富地区
○沿革
明治22(1889)年に中根新田、中新田、大住、三右衛門新田、中根、祢宜島、道原、 治長請所、三郎兵衛新田、上小田、本中根、大島、大島新田の十三の村が合併し、 大富村が成立した。
新しい村名を大富村とした理由は、このあたりがかつて大津荘と呼ばれていたことと、 十三ヶ村の十三を「とみ」と読んで「富」にかけたものといわれる。(『大富村誌』)
<49>本中根(ほんなかね)
本中根、中根、中根新田を合わせて一般に三中根と呼んでいる。 このうち、最も早く開けたのが本中根と思われる。 中根という地名が確認できる最初の資料は、 貞和4(1348)年の「足利直義御教書写」である。
<50>中根(なかね)
本中根から分村したのが慶長10(1605)年という。
<51>中根新田(なかねしんでん)
南の本中根、北の中根にはさまれた、 近世に中根の住民によって開発された新田集落である。
<52>中新田(なかしんでん)
中根(本中根)を中心に進んだ開発の結果成立した新田の一つである。
<53>大住(おおずみ)
天文18(1549)年の記録に現れるが、以後江戸時代まで不詳である。
<54>三右衛門新田(さんうえもんしんでん)
寛文12,3(1635,6)年に大住から分村したと伝える。 村の名は開拓者にちなむもので、三右衛門は中村からの移住者であるという。
<55>治長請所(じちょううけしょ)
本来の村名は治兵衛長次右衛門請所といったが、 明治22(1889)年に治長請所と改めた。
<56>三和(みわ)
昭和42(1967)年に上小田(かみおだ)、三郎兵衛新田(さぶろべえしんでん)、 それに治長請所(じちょううけしょ)の一部を合わせて成立した新しい町である。
<57>祢宜島(ねぎしま)
下小田(しもおだ)で神官(禰宜)を勤めていた神谷家の屋敷が この村の一部にあったことから祢宜島といい、 神谷家にも同家と祢宜島とは深い関係があるのだという伝承があったとされる。
<58>道原(どうばら)
北側に祢宜島をはさんで飛び地があり、北道原(きたどうばら)と呼ばれる。 本村の増田家の先祖があらたに開墾した土地を半兵衛島といい、 そこがもとになったのであろうという。 道原という地名の由来は不明。
<59>大島(おおじま)
昭和34(1959)年、旧大島新田のうち人家がある地域が大島に合併されて、 新しい大島が誕生した。
<60>大島新田(おおじましんでん)
かつては大島村の西に位置した水田中心の村落であったが、 昭和34(1959)年に人家のある区域は大島に編入されたため、 地名としての大島新田はごく狭くなったうえ住民は皆無になった。

和田地区
○沿革
明治22(1889)年に惣右衛門、一色、田尻、田尻北、下小田、北新田 の六村の合併により和田村が成立した。
新しい村名の根拠として、昔から遠江(榛原郡)と駿河(志太郡)との境界線から東側の 海岸を和田浦と称したと言う古老の言や、 田尻村海岸に和田浜川原という字があることにより、 新たな村の名を和田村と定めたものとされている。(『和田村誌』)
<61>惣右衛門(そううえもん)
古くは一色村と一村であったが、慶長9(1604)年の大井川大洪水によって一面荒地となり、 その後に一色の有力農民である惣右衛門が再び開墾した。 元和5(1619)年に検地を受けて一色新田とされ、 寛文7(1667)年から惣右衛門と改称した。
<62>一色(いっしき)
一色という地名は、おそらく一色田からきたものである。 一色田とは荘園における耕地の呼び名で、 領主から地元管理者に与えられた土地や、 中世における自立農民をさす名主(みょうしゅ)に実質的な所有権が認められた土地をさした。
<63>田尻(たじり)
田尻は農村ちたいであるが、 広い村域の海岸寄りの集落では地曳網や製塩が行われるなど、 半農半漁という性格をもっていた。 中世の記録に田尻郷として出てくるのが、現在の田尻と思われる。 田尻郷が記録に現れる最初は観応2(1351)年である。
<64>すみれ台(すみれだい)
昭和49(1974)年に住居表示により大字田尻(たじり)から独立した。 県営田尻団地を改称したもので、1〜二丁目がある。
<65>田尻北(たじりきた)
古くは単に北村といったが、貞亨2(1685)年に田尻北村と改称した。 口碑によれば田中藩の領地にもうひとつ北村(焼津北村)があって誤解を生じやすいので、 田尻を冠したといわれる。 このあたりの中心地は、古く田尻郷と称された田尻村であり、 そこを基準に北という呼称がついたとみられる。
<66>下小田(しもおだ)
村の成立や村名の由来を示すような伝承も資料もない。 しかし当村で名主を勤めた桜井家の先祖は、 平安時代に大和国金剛山の地蔵菩薩を信仰していた桜井武者所康成の末孫、 桜井掃部介延久の孫である次郎延英といい、 諸国を修行中に縁あって下小田に住むことになったという。
<67>下小田中町(しもおだなかまち)
昭和55(1980)年、区画整理事業により、 石津と下小田の各一部をもって成立した新しい町で、整然としている。
<68>北新田(きたしんでん)
もと田尻北(たじりきた)村の孫左衛門が開発した 孫左衛門新田が元禄年間(1688〜1704)以前に田尻北村より分村して北新田となったという。

山・峠
○高草山
標高501.4m
焼津の象徴的な山。
高草山に雪が降ると春が近い、高草山がかすむと雨が近いといわれるなど、 季節や天候を判断する生活に身近な山である。
○花沢山
標高449.2m
地図上にない通称であるが、近世近代を通じて、 焼津市域の広い範囲から薪採取の山として活用されてきた。
○虚空蔵山
標高126m
山頂に造営された虚空蔵菩薩を本尊とする香集寺による。
○日本坂峠
標高302m
花沢集落の最も奥に位置する法華寺が日本坂峠の入口となる。 古代の東海道で、 宇津谷峠を通る東海道が整備された近世中後期に至っても、生活道であった。

河川
※大井川
一級河川
大井川地区
駿河湾に注ぐ
@高草川
二級河川、準用河川
駿河湾に注ぐ
A石脇川
二級河川、準用河川
瀬戸川に合流
B朝比奈川
二級河川
瀬戸川に合流
C瀬戸川
二級河川
浜当目と中港の境界で駿河湾に注ぐ
D梅田川
二級河川
瀬戸川に合流
E小石川
二級河川、準用河川
焼津港に注ぐ
F黒石川
二級河川、準用河川
小川港、焼津港に注ぐ
G木屋川
二級河川
小川港に注ぐ
H栃山川
二級河川
田尻と一色の境界で駿河湾に注ぐ
I成案寺川
二級河川、準用河川
栃山川に合流
※志太田中川
二級河川
大井川地区
大井川港に注ぐ
※泉川
二級河川
大井川地区
志太田中川に合流
J花沢川
準用河川
高草川に注ぐ
K六間川
準用河川
瀬戸川に合流
L泓(ふけ)の川
準用河川
黒石川に合流
M前の川
準用河川
小川港に注ぐ
N栄田川
準用河川
木屋川に合流
O一色・横須賀川
準用河川
木屋川に合流
※藤守川
準用河川
大井川地区
藤守浜で駿河湾に注ぐ
※天王川
準用河川
大井川地区
志太田中川に合流
※上島川
準用河川
大井川地区
泉川に合流
※中島川
準用河川
大井川地区
泉川に合流
※飯渕川
準用河川
大井川地区
大井川港に注ぐ

以下の本を参照しました。
・焼津市史 民俗編(編集:焼津市史編さん委員会 発行:焼津市)



焼津駅
鉄道100年記念

焼津駅ホーム

焼津駅ホームより虚空蔵山を望む