福島市『信夫村』口頭伝承
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福島市に訪問し、字名に興味を覚え、調べてみました。
福島市教育委員会文化課 市史編さん室に問い合わせ、 『福島の民俗U 「福島市史」別巻W(福島市史編纂委員会編集、福島市教育委員会発行)』を紹介されました。

大森の観音様 駒が池(こまがいけ) 長者窪(ちょうじゃくぼ) 城裏口(じょうらぐち) 蛇口(じゃぐち) 牛坂(うしさか) 丑子内(うしこうち) 大森城山(じょうやま) 滝の前(たきのまえ) 日向(ひなた)清水 古舘(こたて) 鳥渡(とりわた)朝日館 平石朝日館 大森城の弁慶の足跡 作ってはならない作物(小田) 作ってはならない作物(下鳥渡) 作ってはならない作物(丑子内) 炭焼き藤太(平石) 狗石の伝説 天皇さまの腰かけ石 天皇さまの腰かけ石 石子薬師 篠塚のこと(八幡塚古墳の伝説) 稲荷塚古墳 天台宗多門寺 治水供養碑 高倉の田植地蔵 山田陸峯壇 細谷の古碑 陽林寺開山様の座禅石 大森観音さまの祭り 朝日山幸福寺 大森竹ノ内八幡社 塩無の権現さま

地図は『カシミール3D』より作成しました。

地図上の地名にマークしたもので、由来地を正しく示すものではありません。
地図の丸数字(@〜)をクリックすると説明を表示します。
    桃色:地名、紫色:歴史伝説(地名を除く)、青色:自然伝説、黄色:信仰伝承

●信夫支所中心の地図(国土地理院 地図閲覧サービス)が別ウィンドウで開きます。




信夫村概要
【信夫村(信夫支所)】
信夫村は福島盆地の南部に位置し、昭和41年6月に福島市と合併した。
信夫村は大森村、鳥川村、平田村の合併により成立した。
大森村は永井川村(上永井川、下永井川)、大森村(大森、内町、小島田、前田)および鳥川村で構成されたが、鳥川村が分村した。
鳥川村は上鳥渡村、下鳥渡村、成川村で構成された。
平田村は平石村(平沢、石名坂)、小田村(小倉、新田野目)、山田村で構成された。
大森村、鳥川村、平田村を構成した各村は大字に対応する。

南方松川町に続く三〇〇メートル前後の山地を分水嶺として北上する川がある。
旧荒川の河口近くに合流する濁川は、さかのぼって永井地区で平田川と大門川を合流する。 濁川は近世では永井川とよんでいた。
平田川は平石川といったが、改修以後平田川といわれるようになった。 この川がつくった低地は、谷を埋めた平石の向久保とよばれるところである。 一方、大門川は小田石橋の近くで西方上流は新田(しんでん)川と、南方上流は狼山(おおかみやま)川とに分かれている。 ここにも低地の谷を埋めて平石の西久保とよぶ耕地となっている。
大森の北部平地には、旧荒川の大森川が広い平地をつくって東流し、濁川河口近くで阿武隈川に注いでいる。

(『「福島市史」別巻X 福島の町と村T』より)

地名
@【大森の観音様】
大森の観音様は、もろこし畑を越えて歩いた時、ころんで目がつぶれてしまったという。 その時もろこしに血がついたので、もろこしの茎には赤いところと白いところがあるのだと伝えている。 それで大森はもろこしを作らないというし、また大森生まれの人は片目が細いといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
信達三十三観音5番札所 城山観音
A【駒が池(こまがいけ)】
昔、平石の駒が石のあたりで、池の水を使って馬を飼っていた。 このうち二頭の馬を金売り吉次の紹介で、平泉の藤原秀衡へ献上した。 秀衡はこの二頭の馬に「大黒」「小黒」と名づけていたが、頼朝に「小黒」の方を贈った。 頼朝はこの「小黒」を「するすみ」と名づけ梶原景季に与えたという。 それでこの池を「するすみか池」といったが、後世「駒が池」というようになったといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
B【長者窪(ちょうじゃくぼ)】
山田の長者窪という所には、むかし長者が住んでいた。 その屋敷跡という所には、現在、石地蔵が立っている。 その所の前には長者山という山がある。 また、上鳥渡の大畑の二階堂家の門は、この長者窪屋敷の長屋内のものであったといわれ、それは今ものこっている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
C【城裏口(じょうらぐち)】
山田の城裏口という大森城山の西側の所には、むかし「常楽寺」という寺があったと伝えられている。 城山の裏にあるから「城裏口」という地名であるが、「常楽寺」とも伝えられている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
D【蛇口(じゃぐち)】
山田の蛇口という所に大昔のこと大蛇が住んでいたという。 ここに「ざらめき滝」という所があり、このまわりは全部耕地になってしまったが、ニ反歩ばかりの土地は開墾されず残っていたという。 しれはこの所を耕そうとすると、どんなに天気がよくとも必ずたちまち雨が降ってくると伝えられていたからである。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
E【牛坂(うしさか)】
平井の牛坂というところには、昔弁慶が書いたという石の道標があったが、近年なくなってしまったといわれる。 またこの牛坂には「牛坂将監」という侍が住んでいたといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
F【丑子内(うしこうち)】
大森の円通寺境内南にある大悲堂の本尊は、如意輪観音像で背丈が一尺四寸八分で、その昔、相模の鎌倉から本郷入道富田某という人が大森へ移してきたといわれている。 この時、この観音像を現在の丑子内にいた赤目斑の牛の背に乗せて運んだので、丑子内の地名ができたといわれている。 この丑子内で飼っていた牛が、ある年の冬の淡雪が降った朝、姿を消してしまったので村人たちが探したところ、足跡をみつけたので、そのあとをついていったら、土湯の女沼のほとりで消えていたと伝えられている。
赤目斑の牛は女沼に沈んで、その主になったという。 そのため、どんな日でりになっても、女沼の水は枯れたことががないのだといわれている。
いまから一〇〇年くらい前までは、丑子内の八幡宮の前には牛の水飼した池が残っていたということである。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
G【大森城山(じょうやま)】
大森城はまたの名を「白鳥城」といわれている。 これは昔伊達政宗が城山の観音様に戦勝を祈願したところ、一羽の白い鳥が飛び立って、その時のいくさに伊達方は大勝利をおさめたので、「白鳥城」の名ができたというのである。(別に白米城の伝説もある。)
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
臥牛山ともよばれる。(『「福島市史」別巻X 福島の町と村T』より)
H【滝の前(たきのまえ)】
大森「滝ノ前」には、昔、御前滝という滝があったといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
I【日向(ひなた)清水】
山田の日向というところは大森城の南麓にあるが、昔、大森城が栄えたころは、ここに清水があって、お姫様がこの清水で髪を洗っていたといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
J【古舘(こたて)】
大森の古舘は、昔佐藤荘司の一族で信夫小次郎というものが、住んでいたところだと伝えられている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
K【鳥渡(とりわた)朝日館】
上鳥渡の朝日館には、昔大森古館に住んでいた信夫小次郎の兄、信夫小太郎治重という者が住んでいた。 石那坂の合戦で、佐藤荘司一族とともに討死したといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
L【平石朝日館】
小田と平石の境にある山は、朝日館とも新地館ともいわれている。 ここは昔伊達輝宗のころ、伊達家の家臣で遠藤駿河守が住んでいたと伝えられており、いまでも空濠のあとなど、山の中に残っている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)
M【大森城の弁慶の足跡】
大森城の山の頂上には、昔弁慶がつけた足跡だといわれる大きな足跡が石に残っている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(地名)』より)

歴史伝説(地名を除く)
@【作ってはならない作物(小田)】
小田では孟宗竹を植えない。鎮守の鹿島様がきらいだからという。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(歴史伝説 館・屋敷・家)』より)
A【作ってはならない作物(下鳥渡)】
下鳥渡の加藤家の一族は、里芋を作らない。 それは先祖がくさった里芋の上ですべってころんだため、敵方に追いつかれて殺されたからだという。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(歴史伝説 館・屋敷・家)』より)
B【作ってはならない作物(丑子内)】
大森字丑子内の渡辺家の一族は、母屋に煙出しをつけない。 これは先祖が渡辺綱で、鬼の腕をとってきておいたら、鬼が煙出しから入ってきて腕をもって逃げ帰ったという。 このため、今でも煙出しをつけないという。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(歴史伝説 館・屋敷・家)』より)
C【炭焼き藤太(平石)】
昔、平沢村(現平石)に藤太という炭焼きが住んでいた。
−概略−
中納言の娘を嫁にした。 娘が黄金を藤太に渡し買い物を頼んだ。 途中たくさんの鴨がいたので黄金を投げつけた。 娘は黄金のねうちをきかせたところ、「あんな物、裏山を掘ればなんぼでも出てくる。」といった。
ふたりの間には、子どもが三人あった。 一番上を吉次、二番目を吉内、三番目を吉六といい、大きくなってから家にあった黄金を持ち出し商人となり、都へのぼって、しまいに長者になった。 この藤太の長男、吉次が、「金売り吉次」。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(歴史伝説 人物)』より)

自然伝説
@【狗石の伝説】
平石の石名坂の山中に狗石という石があった。 この石は、むかし国の犬と村の犬がたたかった時、そのまま石になってしまったものだといい伝えられている。 また、別には佐藤の犬と畠山の犬がけんかした時のものだともいい、一つは高さ1.32メートル、もう一つは1.98メートルほどの石で30センチぐらい離れて向かい合っているように並んでいたという。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(自然伝説 石・山)』より)
A【天皇さまの腰かけ石】
平石の駒ヶ池地内には、昔、京の都の偉い人がここに来た時、腰をかけた所だといわれる石があり、天皇さまの腰かけた場所だともいい伝えている。 とがったところが馬の鞍をかけるのに似ているところから、鞍かけ石ともいわれていた。 今では割って使ってしまった。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(自然伝説 石・山)』より)
B【山田大清水】
昔、欽明天皇の頃、石姫という人が奥州に来て、金沢から御山へ行く途中で病気になり、この大清水のところで休んで、この水を用いたところ、すっかりなおられて目的の御山へ行くことができました。 しかし、後に御山でなくなられたという。
また、その後羽黒権現がこのあたりにあらわれて、この近くを馬で通ると必ず馬からふり落とされるといい伝えられている。 正月十四日と六月十四日は、この清水のそばに必ず馬の足跡がついていたが、水を汲んだあとはなかったと伝えられている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(自然伝説 水)』より)

信仰伝説
@【石子薬師】
むかし、清原元輔という人が都から下鳥渡の田中にきて、ここに住みつき、薬師の像を作ってまったといわれている。 この薬師像は、後になって字石橋の地に移されたという。 清原元輔の歌にある「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」は、この近くの山のことを詠んだものという。 近くにあった寺で廃寺となってしまった「湖山寺」という寺の山号は、この歌からとって「末松山」と称したと伝えられている。 (『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
A【篠塚のこと(八幡塚古墳の伝説)】
下鳥渡字八幡塚にある古墳は、八幡様をまつっている。 むかし、出羽国に往来の道を開いたときの記念の塚と伝えられている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
B【稲荷塚古墳】
下鳥渡字稲荷塚にある古墳は、昔ここに狐が住んでいて、村人に害をなしたので、この狐を殺して埋め、塚を築いたといわれている。 塚の上に稲荷様の祠が建てられてある。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
C【天台宗多門寺】
上鳥渡字茶中(ちゃなか)の地内に毘沙門様の堂宇がある。 ここにはむかし、建久の頃、天台宗の多門寺という寺があったといわれている。 この多門寺は、これより南手にあった桜館という舘にいた、北畠顕家の家臣宍戸某の菩提寺であったと伝えられている。 その当時の毘沙門堂は七間四面で、たいへん荘厳なものであった。 そのあと、天正年間、天童帯刀定義という武将の保護もあったが、定義が伊達政宗に従って仙台に移ってしまうと荒廃し、寛文元年ころ火災にかかり、往時の面影を失ってしまたという。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
D【治水供養碑】
上鳥渡字田中内南の川土手の上に治水供養碑がる。 村人はこの碑のことを「千部供養」といい、むかし荒川が増水し、荒井村川石田の堤防が切れ、洪水となり、荒井村をへて上鳥渡の大畑北から団子田の前後に及ぶことがたびたびあったという。 このため、村人たちが集って、この碑を建て、一石一字の梵字を記して積み重ね、供養塚を築いたとのことである。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
E【高倉の田植地蔵】
山田の高倉にある延命地蔵堂は、土地の人々からは「田植地蔵さま」と親しまれている。 堂の中には、地蔵の木像が、何体かまつられている。
むかし、山田は田植えの時期になっても、水が少なくて田植えに困っていたという。 その時も、やはり水が不足していて、田植がなかなかはかどらないでいた。 それでも、何日かのあいだに、苗が植えられていった。 ところが、地蔵堂の近くにあった田の数枚は、どうしても水が少なく、田植えができないでいた。
すると、ある夜、一晩のうちに、この残っていた田に苗が青々と植えられていたという。 そこで部落の人々は、これは誰の仕わざなのだろうかといっていたところ、地蔵堂の石段に、小さな泥の足あとが乱れてついているのを見つけた。 それで、お堂の扉を開いてみたら、お堂に納められていた何体かのお地蔵さまの足の全部に、泥がついていたという。
それから、部落の人々は、この地蔵さまを、「田植地蔵さま」と呼ぶようになったといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
F【山田陸峯壇】
山田の高才(たかさい)という所から麦ヶ入(もんがいり)部落への途中に、高野坂(こうやさか)というかなり長い坂があるが、この坂の右手の山は「陸峯壇(ろくぶだん)」といわれている。
むかし、元禄から正徳のころ、この陸峯壇の向う側の部落に、金の貸し借りのことから人殺し事件が起こったという。 麦ヶ入の先の「蛇口(じゃぐち)」の人と「土橋(つづばし)」との人の間に起こったものと伝えられている。蛇口の人は、土橋の人に金を貸したが、期限になっても、なかなか、土橋の人は返すことができず、何回も催促された。 それでも土橋では、金を返さなかったので、蛇口の家の息子は怒ってしまって、あるとき、土橋へ乗り込んでいって、そこの主人を刀にかけて殺してしまった。
−概略−
父親が息子をかばって罪を負った。
息子は親の犠牲にすまなく思い、心の修行と殺した人の供養のため、六部となり、全国行脚の旅に出た。
息子は山田に戻り、後世まで供養し続けるため、陸峯壇の山の頂上に、旅に持っていったものを埋め、供養石を建てた。 この石碑は、蛇口と土橋の方を見えるようにと、南向きに建てられたといわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
G【細谷(ほそや)の古碑】
むかし、大森・山田・鳥渡にかけて小さな合戦があったという。 この合戦は伊達為家という者と、伊達家とどういう関係があったかは不明だが、近江の国育ちの野地義清という者との間に起こったものだといわれている。
伊達為家は、野地義清を討ちとり、合戦は終わったかに見えたが、この野地義清に、頼清という子があった。 野地頼清は父の仇ということで、ふたたび合戦を起こし、この時には伊達為家を取り、為家は頼清方に殺されてしまったという。 野地頼清は、父を討った為家を殺したが、父と為家の供養のため碑を建てたと伝えられている。 (その石碑といわれるものかどうか、山田の細谷に、文久九年の為慈父五七日の古碑がある。)
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
H【陽林寺開山様の座禅石】
陽林寺の開山さまは、昔、駿河の国の方からこの地にやってきたといわれている。 それは、開山様が修業中のある夜に夢をみて、 「お前の修業するところは、奥州の地である。そこに行って教えをひろめよ。」 とお告げがあったので、修業にやってきたという。 奥州にきてみても、どこがどうやら見当もつかず、歩いているうちに、現在陽林寺のある山や沢が自分の修業していた寺のある山ににているので、この山のふもとにきて草庵をかまえ座禅をしていた。
開山様は二一日の間、飲まず食わずの座禅をしていて満願の日がやってきたが、何も食べなかったので身体がふらふらになって弱っていた。 そのころ、近くの家に綿をつくっている婆さまがあって、この弱っている開山様に、小豆粥をこしらえて食べさせてやったところ、元気をとりもどし、さらに修業を続けることができた。 それで、開山様参りには、村の人たちが、小豆を持ちよりお供えするということで、いまも婆さまの綿かけしていた清水というのがあって「綿かけ清水」といわれている。 座禅していた石というのは、丸い平らな石で、これものこっている。
−概略−
陽林寺は、伊達稙宗が建てた。
陽林寺参道の小さな沢を「綿打沢」ともいう。
陽林寺参道に「化けもの石」というのがある。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
I【大森観音さまの祭り】
大森観音様のお祭りは旧二月十七日である。 昔、土湯の山から木を運んでいた馬があったが、年よりになったので暇をくれたら土湯の沼に入ったという。 それでもこの観音さまのお祭りには、その馬が沼から上がってきて、どんな天気のときでも二つぶでも三つぶでも雨を降らせるという。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
J【朝日山幸福寺】
小田高福内(こうふくうち)に昔お寺があったといわれている。 この寺の名は「朝日山幸福寺」といって、ここは小田でも陽のあたるところである。 また小田の杉ノ内には「夕日山」という山号をもった寺があったとも伝えられている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
K【大森竹ノ内八幡社】
昔康平年間か応徳年間のころ、源義家が大森の竹ノ内八幡社あたりに陣をかまえた時、勝利を願うため家来たちに酒を配り神に祈ったところ、その夜の夢の中で、戦に勝ったことを見たという。 果して翌日からの戦では相手方を敗ったので、ここに八幡社をたて宝物をおさめたといわれている。 また、義家がこの地で眠ったところから「睡眠山」とよび、春秋になれば、山すそに霧かもやがたって幕をはったように包むことから、腰の巻ともいわれている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)
L【塩無の権現さま】
小田の上代(かみだい)の塩無にある塩無権現は、いつかの長雨のとき山が崩れて、そのあとに横穴があき、その中に銅幣があったという。 村人はこの銅幣について、大昔湖があった時、権現様をまつったものだろうといっている。
(『「福島市史」別巻W 福島の民俗U(信仰伝説 神・仏)』より)

以下の本を参照し、信夫村(大森・平田・鳥川地区)に関わるものを抜粋・要約しました。
・福島の民俗T  「福島市史」別巻V(福島市史編纂委員会編集、福島市教育委員会発行)
・福島の民俗U  「福島市史」別巻W(福島市史編纂委員会編集、福島市教育委員会発行)
・福島の町と村T 「福島市史」別巻X(福島市史編纂委員会編集、福島市教育委員会発行)
・福島の町と村U 「福島市史」別巻Y(福島市史編纂委員会編集、福島市教育委員会発行)