新潟市
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学生時代の一時期を過した街。
ほぼ寮で過し、その周辺と五十嵐、古町の一部のみしか馴染がない。
新潟市史を調べ、ホームページより、 『新潟歴史双書8 新潟の地名と歴史(2004年発行 編集発行:新潟市)』を見つけました。

日和山(旧) 日和山 学校町と医学町 しょうこん坂 水道町 古湊町 どっぺり坂 関屋 六花寮

地図は『カシミール3D』より作成しました。(現地図とは異なります。)

●新潟大学六花寮(新潟市中央区関屋2-18)跡の地図(国土地理院 地図閲覧サービス)が別ウィンドウで開きます。




新潟市合併の歴史
1889(明22)市制・町村制施行。新潟市施行。
1914(大03)沼垂町と合併。
1919(大08)石山村馬越・鴉又の一部を編入。
1943(昭18)大形村・石山村・鳥屋野村と合併。
1954(昭29)松ヶ崎浜村・坂井輪村・濁川村・南浜村と合併。
1957(昭32)両川村・曽野木村・大江山村と合併。
1960(昭35)内野町と合併。
1961(昭36)中野小屋村・赤塚村と合併。
2001(平13)黒埼町と合併。
2005(平17)新津市,白根市,豊栄市,小須戸町,横越町,亀田町,岩室村,西川町,味方村,潟東村,月潟村,中之口村,巻町と合併。
2007(平19)政令指定都市に移行。北・東・中央・江南・秋葉・南・西・西蒲の8区役所開所。

(『新潟市ホームページ』より)

行政区の構成
○北区
旧豊栄市、旧横越町の一部(阿賀野川右岸)、旧松ヶ崎浜村の一部(阿賀野川右岸)、旧南浜村、旧濁川村。
○東区
旧沼垂町の一部、旧大形村、旧松ケ崎浜村の一部(阿賀野川左岸)、旧石山村の一部。
○中央区
旧新潟市中央(新潟島)、旧沼垂町の一部、旧石山村の一部、旧鳥屋野村。
○江南区
旧亀田町、旧横越町の一部(阿賀野川左岸)、旧曽野木村、旧両川村、旧大江山村。
○秋葉区
旧新津市、旧小須戸町。
○南区
旧白根市、旧味方村、旧月潟村。
○西区
旧内野町、赤塚村、中野小屋村、旧坂井輪村、旧黒埼町、旧巻町の一部。
○西蒲区
旧岩室村、旧西川町、旧潟東村、旧中之口村、旧巻町の一部。

国・郡と中世の地名
◎越
「越」は北陸地方の古称で、国名でもあった。
越国は七世紀末に国が分割されて北陸道に編成された。
越は高志・古志とも記された。
北越は後に越中・越後(富山・新潟県)を示す言葉となり、さらに越後だけを示す言葉にもなった。
◎越後
越国は七世紀末に越前・越中・越後国に分割された。
当初の越後国の範囲は、阿賀野川以北の沼垂・磐舟(岩船)の二郡であった。
大宝2(702)年に、越中国から頚城(くびき)・古志・魚沼・蒲原の四郡が編入された。
◎沼垂郡
沼垂郡の郡域は阿賀野川と荒川(村上市・胎内市の市境辺りで日本海に注ぐ)に挟まれた範囲で、 郷は沼垂(ぬたり)郷・賀地(かじ)郷・足羽(あすわ)郷の三つであった。
◎蒲原郡
奈良・平安時代の蒲原郡は阿賀野川以南が郡域であった。
郷は桜井郷・青海(おうみ)郷・勇礼(いくれ)郷・小伏(おふせ)郷・日置(ひおき)郷の五つであった。
◎新潟津、蒲原津、沼垂湊
蒲原津が記録に現れるのは、延長5(927)年である。
南北朝時代(1336-92年)に沼垂港の記録がある。
新潟が記録に現れるのは、戦国時代の永禄7(1564)年である。
信濃川左岸に新潟、信濃川右岸に蒲原、阿賀野川左岸に沼垂があり、 併せて三ヶ津(さんかつ)と呼ばれた。
三ヶ津は天文20(1551)年が最初の記録である。
永禄12(1569)年以後には三ヶ津の記録がなく、蒲原はほとんど現れなくなる。
天正6(1578)年以降は「新潟津」と記される。

新潟町と沼垂町
◎新潟町
寛永8(1631)の洪水により新潟町と寄居・白山島(州)との間の信濃川流路に土砂がたまり、 寄居・白山島の東岸が信濃川の岸となったため、移転となった。 移転前は現在の東中通より海岸側であり、移転先は寄居・白山島であった。
明暦元(1655)年、新潟町は寄居・白山島へ移転し、 寄居・白山島にあった寄居村はかつての新潟町や流路跡に移った。
移転時の新潟町は白山神社側を上手とし、白山島と白山堀で隔て、 南北の寺町堀(西堀)、片原掘(東堀)により、西から寺町(現西掘通)、古町通、本町通の三列から成った。 東西方向の横堀は寺町堀・片原掘と信濃川を結び、 白山堀(一番掘)、新津屋小路堀(二番堀)、広小路堀(四番堀)、御祭(ごさい)堀(五番堀)であったが、 延宝8(1680)年までに新堀(三番堀)が掘られて五本になった。
◎沼垂町
寛永8(1631)の洪水により阿賀野川河口は大きく変化し、町は移転を繰り返した。
貞享元(1684)年、長嶺新田の栗ノ木川沿いの地への移転が最後になった。

地名
@日和山 (地図:旧) (地図:新)
江戸時代後期、日和山は新潟の町民に親しまれた山であった。 日和山は、船乗りが出奔を決めるため、天候や風向きを観測する山で、各地の港にあった。 新潟の日和山では、代々新潟湊の水先案内を務めた伊藤家が船見櫓を建て、 天候や舟の出入りを観測していた。 日和山の船見櫓・茶屋・住吉神社は、明治13(1880)年に大火で焼失した。 翌年、日和山より海岸側の砂丘に新しい日和山(現西海岸公園日和山展望台付近)が作られた。
A学校町と医学町
明06(1873)年 県立新潟学校が移転、新潟病院建設。
明08(1875)年 官立新潟師範学校・官立英語学校建設。
明12(1879)年 学校通1番町、学校裏町、医学町通1〜2番町の町名を告示。
Bしょうこん坂 (地図)
明治元(1868)年、戊辰戦争(慶応4(1868)年)で戦死した新政府軍兵士を祭る招魂(しょうこん)場を各地に建立した。 招魂場に登る参道は招魂坂と呼ばれた。 招魂場は明8(1875)年に招魂社、昭14(1939)年に護国神社と名を変え、 昭20(1945)年に移転した。移転後も招魂坂と呼ばれた。 昭33(1958)年の階段改修により一時ワルツ坂とも呼ばれた。
C水道町
明27(1894)年、新潟区が近代水道を敷設する調査を始め、 明41(1908)年に新潟市が敷設工事を着工し、 明43(1910)年に水道の給水が始まった。
取水場は信濃川左岸の黒埼村大字寺地(てらじ)であった。 そこから、関屋浄水場(現関屋下川原町1丁目)に送水され、 さらに砂丘の高台に設けられた南山配水場(旭町2番町)に送水されて、 市内各地へ配水された。 南山(みなみやま)は東中通の西側一帯の砂丘地の呼び名であった。 関屋浄水場から南山配水場への送水管の上には道路が通されたが、 その浜側(西側)はほとんど松林であった。 昭2(1927)年に新たな町名が付けられ、送水管の浜側のうち、 関屋浄水場に近い方が水道町1丁目、南山配水場に近い方が水道町2丁目となった。
南山配水場は昭45(1970)年にビル式の配水池になり、 屋上に日本海タワーという展望台が設置された。
D古湊町
東区の古湊(ふるみなと)町は、かつて湊があった所である。 旧阿賀野川は、およそ通船川の流路で右岸に沼垂湊があった。 阿賀野川の流れが変わり、沼垂町は移転を繰り返した。 古湊付近は信濃川右岸となった。 大正から昭和初期にかけて県営埠頭と臨海埠頭が作られ、 昭15(1940)年の町名が改正され古湊町となった。
Eどっぺり坂 (地図)
西大畑の砂丘のふもとには、かつて異人池といわれた池があった。 新潟カトリック教会が建てられるときに掘った井戸から水が湧き出し池となったことによる。
西大畑には、大9(1920)年に旧制新潟高等学校が建てられた。 学校には六華(りっか)寮(後の六花寮)という学生寮があった。 学校から異人池わきに通じる階段の坂道は、いつのまにか「どっぺり坂」と呼ばれるようになった。 「どっぺり」は、ドイツ語で二倍を表す「doppel」を動詞化した学生言葉で落第の意味に使われた。
F関屋
上杉謙信の家臣で、関屋某がこの地に住み着いたことによる。
関屋金衛町の「金衛」は関屋の旧家の人の名であった。

以下の本を参照しました。
・新潟歴史双書8 新潟の地名と歴史(2004年発行 編集発行:新潟市)

地図は「国土地理院 地図閲覧サービス」のリンクによる。